MOON CHILD -Smells like the wandering spirit-



 奇人変人の類だ、なんて話は聞いてたし自分でも思っていたけど、
 まさかこうまで変わったトコがあるなんて。
 驚きばかりね、エレコウ。
 つくづく、貴方は奇妙な人。
 人里外れた丘の上に、木材で作った家に住むなんて、ホント、奇妙。
 見た目はまあ、地味で質素といった感じだけど、違う事を私はもう知ってる。
 木材は高級品で、そんなもので家を建てる人間なんてもう数えるほどいなくて、
 その数少ない人間のうちの一人がエレコウなんだってことも。

 まるで、合金や樹脂、石膏、あるいはそれらを混ぜた構造物で作られた世界とは、
 決別でもしたのかって思えてくる。
 流石は野蛮の王様ってところね。
 人工物が、さぞお嫌いなんでしょうね。

 そういうところは、私も嫌いじゃありませんよ、エレコウ。


「大乗のエレコウ。いますか? 我が主、ユリウス様の使いで来ました。
 件の金品と、心ばかりの手土産と、一つ『お願い』を持って。開けてくれますか?」
「……んあ? その声……あぁ、嬢ちゃんか、あーいいよいいよ、開いてるから入りなさいな」


 ふざけた男ね。出迎えも警戒もなしに入れ、なんて。
 いっそこの瞬間にでも襲い掛かればどう返すか興味があるけど、
 しかしそれを行えばユリウス様の命に泥を塗る事になるから、私はしない。
 それをするのは、『二手』ほど話を進めてからでも、十分だもの。

 まあ、好きに入れって言われたんだから扉を開け――あら、これはこれは。
 思ったより内装も落ち着いてて悪くない感じ。掃除も行き届いているし。
 ただ少し本棚が多すぎるのがちょっと気にかかるかな。
 けどまあ十分許容範囲。なんだ、変人だけど趣味はいいのね。

 さて、エレコウは……と。ああ、寝椅子に寝転がって何かを読んでるみたい。
 何の本かは知らないけど、見た感じ、私の握りこぶしより分厚くて、少し古臭そう。
 紙媒体の書物なんてほとんど廃れた、と以前聞いた事があるから、
 もしかしたらその本は、十年や二十年も前に出たものなのかもしれない。
 なるほど、全体的に、懐古趣味ってやつね。


「あー、お金ちゃんとかならその辺に置いといてくれていいよん。お土産、ナマモン?」
「いえ……珍しい古酒が入ったとのことで、それを。あと、甘いものが好きと聞いたので、それも」
「いいねぇ、素敵だよお嬢さまァ。態々エレコウさんの嗜好も踏まえてくれるなんて、もぉっ最高!
 ンじゃ仕方ない、キリが悪いところだけど読書はやめて、ちょいと軽くおもてなしをしたげようか。
 つーわけでいーいお茶、入れたげるから、その間にその『お願い』とやら、言ってちょーだいな」


 ……さらりと簡潔に言うのね。
 いやまあ、色々クドクドついてる部分もあるけど、
 話題そのものは前振りもなく言いのけている。
 単に言いたいことを言ってるだけにも思えるけれど、
 ユリウス様の言葉を聴いた限りでは、それだけじゃないんでしょうね。

 話題は常に単刀直入、冗談は付け加えても雑談は極端に排除。
 私とはまるで逆ですね、エレコウ。


「今回、ユリウス様に渡された貴方への『お金ちゃん』は一千万アムル、
 そして三十日ほど後にもう四千万、貴方に送られる事になってますね」
「はぁ? ちょいとまちな、桁が違いやしないかい?
 いっつも五百万とかそこらなのに、今回は合計五千万って、なにそれこわい。
 あれかい、手切れ金? それとも、なんか怪獣の群れでもぶったおして来いって催促かい?」
「当たらずとも遠からず、といったところですね。
 本日から二十日ほど、余の手ごまに特訓をつけてもらいたい。
 ……これが、ユリウス様から承った『お願い』であり、私への『命令』です」


 『お願い』の内容に、少しは驚くかなとも思ったけれど、この男……器用にも背中で笑っている。
 図太いというかなんと言うか、人生が楽しそうな男ね。
 何言われても、へえ、それはすごいね、で返してきそうだ。

 まあけど、笑っているということは、嫌がってはいないのかな。
 ここでもし、そんなのお断りだ、なんて言ってきたら。

 ――その時こそ、本気で殴ろうと思っていたのに。


「特訓、特訓ねぇ……いいよ、請け負ったげようじゃないか、このエレコウさんが」
「そうですか、それはありがとうございます。寝泊りもこちらでさせてもらいますが、よろしいですね?」
「んー、ま、多分問題ないだろ。それはそーとして、お嬢ちゃんはお昼、もう食べたかい?」


 は?


「いや何、マダだったら調度いいなーって思ってさぁ。やっぱ花嫁修業はまず料理から――」
「ちょちょちょ――ちょっと待ってください! な、なんで花嫁修業なんですかお料理なんですか!?
 そうじゃなくてですね、私は貴方に格闘技や怪物相手に戦えるだけの技術を教えてもらうために――」
「いやーちょーどよかったよかった。実は今朝いー魚が釣れてさぁ、料理するのにもってこいでさぁ……」


 前言撤回。総撤回。ダメだこの男。
 単に人の話を聞かずに自分の流れでいきたいだけなのね。
 しかしなんで花嫁修業だなんて……しかも、花嫁だなんて!


「いやァ実は宰相殿の事ァね、前々から女の趣味と身持ちに関しては気にかけててさぁ。
 いやーよかったよかった、いいお嫁さんがもらえてるんじゃン、うらやましいなー、まったく。
 ま、とりあえず、まずは基本から応用、裏技の限りまで、この暗黒料理人エレコウさんが教えて進ぜよう」
「……人の話、聞いてますかッ!? そうじゃないって言ってるじゃないですかっ!!」
「けど、手料理イイと思わない? 『美味いな……料理上手な妻を持って、余はうれしく思うぞ』……」
「――――ッ!」


 ッッ…………!


「手料理ってば最高さ、男を落とすにはこれほど手堅い方法はないってね。
 お嬢ちゃん可愛いんだし、さらに料理の腕前も使ってさ、宰相殿をその気にさせちゃえって」


 …………この、男……ッ。


「や ら な い か ?」









 気まずい。
 全体的に気まずい。
 気まずい空気しかない。


「まあ、確かにあれだ。やらないかって言ったのは確かに、このエレコウさんさ。
 そりゃあ認めるよ。認めてやんよ。そこの部分は仕方が無いってわかってるさ。
 料理初めてってのもまあ、よしとするよ。お嬢ちゃんくらいの年頃なら、
 確かにそーゆーのやった事無いかもしれない。そりゃ、やった事無いなら仕方ない。
 ……けどさぁ……包丁で上手い事頭落とせないからって、
 素手でブチッと千切り取るのは流石にどーかと思うよ、エレコウさんだって!!」


 ……だって、仕方ないじゃない。初めてなんだもの。

 というか嫌々やらさせられたのに怒られるだなんて、割に合わない。
 そもそも、ためしにできるところまでやってみな、といったのは何処のどいつなのか、
 すっぱりと忘れていそうだ、この男は。

 はぁ……駄目ね。
 全然駄目。

 この男、エレコウは、あのウドランとは別の意味で、全ッ然駄目。
 性格や相性の問題で、どうもかみ合いそうに無い。
 正直、ここまで付き合いづらい人間がいるなんて、驚きね、まったく。
 しかもまだ、あと二十日も一緒にいないといけないなんて……拷問だわ。


「まあ、いいさ。とりあえず出来合いの昼飯、買ってきてもらってるからそれを喰うか。
 ……この、産業廃棄物以外の何物でもない肉塊は……………………うん、お茶いれてきまーす」
「……言葉を濁さなくていいですよ、別に……」


 いっそ笑ってくれたほうが楽になれるのに。
 って、買ってきてもらってるって……誰に?


「お客さん……ですか?」


 ああ、びっくりした。
 油断大敵、とでも言えばいいのかな。

 あの大馬鹿――エレコウの相手で気が緩んだ……というよりは、
 単に疲れたというか、自分の料理技術のなさに呆れたというか、
 まあそういった理由で気が緩んでいたのは確かだけれども、
 まさかこうも背後から近寄る人物に気がつかないだなんて、化け物失格ね、私。
 まったく、獣が人間に驚かされた、だなんて、どうすればいいのかしらね、はぁ。

 なんて、内心でため息なんかついてたりするけど、
 そんなことはおくびにも出さずに『笑顔』で振り向き、


「はい、今日からしばらくの間、こちらでお世話になります、ティカといいます。貴方は?」
「僕は……僕は、そうですね……エレコウさんの、弟分……のようなものでしょうか……」


 弟分だなんていうけど、どう見ても貴方のほうが年上ですよ――なんて、言ったら怒られるかもね。

 見たところ二十代の半ばから後半、肩幅が広めってところの男性ね。
 こっちは名前を名乗ったというのに、名乗り返さないあたりは少しお頭が足りない感じ。
 最も、それだけの人間があのエレコウの弟だ、なんて名乗るはずは無い。
 きっととんでもない能力でも持っているか、快王に並ぶほどの実力を秘めているか、
 たとえそんなものが無かったとしても、あの男と付き合えているだけでも驚きに違いない。

 そう考えると……ある意味すごい人か、な。


「なーにが弟分だ、お兄ちゃんの癖に。ったく、お使いごくろーさん、ヴァルカン。
 そっちのお嬢ちゃんはまあ、あれだ、宰相殿の差し金さんだから、てーちょーにな」
「差し金って……さりげに酷いですね、まったく」
「はぁ、じゃあ、とりあえず食事にしましょうか」


 お兄ちゃん、もといヴァルカン、ねえ。
 よくは判らないけど弟分ということは、小姓や弟子の類なのだろうか。
 まあ、細かいところはどうでもいいけど。
 どうせ、二十日程度の付き合いに、過ぎないのだから。
 別段仲良くする必要性はないもの。
 ただ、私は私が学べる事をここで学ぶ。
 それだけで十分なの、それだけで。


「ん、おいお嬢ちゃん、なーに突っ立てるんだ?
 お嬢ちゃんの分も買ってンだから、コッチ来て食いな」
「……。じゃあ、ご一緒させてもらいます……」
「覇気ねー声だねぇ、ちゃんと飯くってんのかい、お嬢ちゃんはさぁ。
 ほれ、果物と乳でも取りな、栄養あるし元気でるからねぇ、どっちも」
「エレコウさん、お嬢ちゃんという言い方はどうかと……」


 常識人だ。常識人がここにいる。意外だ。
 こんな男の下にいる人間だというのに、常識的だなんて。


「お、エレコウさん野菜いただき。あ、それとお嬢ちゃん、読書は好きかい?」
「は……? いえ、特には……今まで訓練ばかりで、そういうのは……」
「あらら、そいつぁいけないなぁ。んじゃあれだ、食事終わったら読書会だな」


 ……何を言ってる、この男は。


「あのですね、何か勘違いしているようですので一応言っておきますね。
 別段私は嫁だの何だのといった理由で、態々こんな辺鄙なところに来たんじゃないんですよ。
 大乗のエレコウ、貴方に私との肉弾戦の相手を勤めてもらいに来たんです。
 読書だの料理だのって下らない物事のために来たわけじゃないんです。判ります? 私の言いたいことが」
「まくし立てると敬語ってーかすぱっとした言い方になるんだね、お嬢ちゃんは」


 駄目だこいつ、聞いてない……。
 もう、いいかな。一発くらい殴りかかっても文句は言われないよね。
 常々妹たちには自粛しようねって言い張ってるけど……うん、無理。
 この男のふざけた根性だけは、どう我慢しても耐え切れないものがある。


「つーか何か勘違いしてない、お嬢ちゃん?」
「勘違い……ですか?」
「そ、勘違い。エレコウさんは弟子なんかとらねーし、人に物事を教えるのはものすごく苦手なのさ。
 それに、お嬢ちゃんの相手するのは、正直怖いしね。あんたその気になったら宰相殿殺せそーなんだもん。
 そんな奴に相手しろっていわれても、しかももっと強くしてくれって言われても、そんなのエレコウさん困っちゃう」


 そういえば、この男にはユリウス様とのお相手の一部始終を、見られていたんだっけ。
 しかし……怖いって? このろくでもない男にも、怖いものがあるというの?
 ある意味では意外、ある意味では失望とでも呼べばいいのかな。
 なんとなく、少しだけれども、僅かとはいえがっかりとしたものが心中に漂う。

 そういう人間ではない、と思っていたのに、ね。


「貴方にも、怖いものがあるんですか?」
「そりゃあある。快王狩りできそーな実力持ってる暴力姉ちゃんだとか、
 それがあと二十人ほど存在してるって聞いただけでも、震えが出てくるよ。
 そうじゃなくても怖いものはいくらだってあるんだしねぇ。
 戦場じゃあ流れ弾に当たれば死ぬし、怪獣に踏まれても死ぬ。
 こんな風に………ごくん、と飯を喰わなければ死ぬし、何も無くてもいつかは年くって死ぬ。
 それを想うと、おおこわいこわい。人は生きるのは、それは何時だって恐怖があるからさ。
 恐怖するために人は生き、恐怖を忘れたときに死ぬ。だから汝、恐怖を忘れる事なかれ、さ。
 お嬢ちゃんにはまだ判らないかな。あの、ろくでもないアドニスに造られた人造人間じゃあ、ねぇ」


 肩をすくめ、髪をかき上げ、もしゃもしゃと野菜を貪る男からは、
 『ニンゲン』たちが私に向ける恐怖の感情といったものは、感じられない。
 なのに、怖いという。恐ろしいという。
 訪れるはずの無い出来事に恐怖し、未来などという不確かなものに恐怖し、
 なのに平然としか見えないこの男は、本当にこわがっているの?

 判らない。
 判らない、けど。
 お嬢ちゃんにはまだ判らない。
 その言葉だけが、気に掛かる。

 それに、私の事を詳しく知っているのにも気になる。
 アドニス女史の名前も知っていて。
 妹がいる事も知っていて。
 けどそれ以上は踏み込んでこない。

 あくまで私に対する情報だけで、それ以外は何も言っていないのと同じだ。

 じゃあ一体、この男は何を知っていて、何を知らないのか。
 何が言いたくて、何が言いたくないのか。
 それが私には、判らない。


「例をとっていってみようか? 一匹あたり快王一人倒せるだけの力量をもったお嬢ちゃんがいるとする。
 そしてそのお嬢ちゃんには、お嬢ちゃんそっくりの外見と同じだけの力量を持った妹が存在している。
 ……少なくとも、五人も同時に襲い掛かれば、快王なんざあっという間にひき肉にされちゃうだろうねぇ」


 それは――正論でしょうね。
 匹敵する力を持った私達が、全員で襲い掛かれば確かに、倒せる。
 あの時もそうだったし、そうじゃなくても、妹たち全員の意識を私に集中させれば――

 ――ユリウス様だって、殺せた。


「そんなお嬢ちゃんたちには稽古なんていらねーんじゃないのかなぁって、エレコウさんは思うのよ。
 ま、でも、そっちはそーでもないみたいだけどねぇ……はっきり言って、無駄なんだろーけどさぁ」
「無駄、ですか?」
「うん、無駄。でも、言っても聞かないだろーし……しょーがないね。
 お嬢ちゃん、さっきから飯に手ぇつけてないし、殺気もばら撒きまくり。
 しゃーないから、ちょっとだけ相手したげよーじゃないか。それでいーかい?」


 もちろん、望むところですよ、エレコウ。
 むしろそちらから言い出してくれて、感謝してますよ。


「んじゃ、ヴァルカン。エレコウさんも飯はもういいや、食べ過ぎたら動けなくなるしね。
 後は適当に冷蔵庫にでも突っ込んでおくか、お前さんが食べちゃってちょーだいな」


 ぐる、ぐる、ぐる。
 腕を回し、肩を回し、軽く身体をほぐしながら、エレコウが玄関へ向かっていく。

 表でやろう、という事かな。
 まあ確かに、狭い室内で暴れるのもあれかな。
 私はちらりと食事に蓋を閉めて片付けを始めているヴァルカンを見て、
 そして同じように外へと出る。

 丘の上にはまばらに生えた木々と草花がある限りで、遮蔽物は何も無い。
 その分私には有利だと思う。
 少なくとも、大規模な罠は仕掛けれそうにないから。

 だとすると……『逃げ』でも『追い詰め』でもなく、最初から『狩る』つもり、エレコウ?

 見ればエレコウは、そう私が考えている事を知ってか知らずか、
 膝の屈伸や腕の腱を丹念に伸ばしている。
 準備運動かな。それなりに、真面目に仕掛けてくるつもりかも。

 だとするなら……。
 貴方の実力と私自身を、試させてもらいますよ。


「さて、お嬢ちゃん。やりあう前に、ちょっと助言をしてあげよう」
「……助言、ですか?」


 敵に態々そんな事を言うなんて、随分と余裕ですね。
 貴方に関する情報を知らないとでも思ってるんですかね。
 相手の情報を知っているのは、何も貴方だけではないのですよ、エレコウ。

 こちらは貴方の『逃げる』考え方を、貴方は私の『肉体能力』を知ってる状態だけど、
 私は、今回に限っては、手加減をしないつもりですよ?

 貴方は気にくわない。
 だから、全力で叩き潰します。


「そ、助言、助言。長々といってもあれだからね、簡潔に言わせてもらうけど、
 あれだ、お嬢ちゃんは殺気を隠そうとしてないけどさぁ、そいつは……まずいよ」
「まずい、ですか? それは……どういう意味ですか?」
「んー、ま、例をいうならさ、非常に人間離れした強い殺気は常人を射竦めることはできる。
 けど強靭なやつや、精神的に打たれ強い人間、あるいは動物全般には……効果は薄い。
 それに強すぎる殺気は、相手に攻めの呼吸を読まれやすいからね。
 正直……上位者同士の戦いでは、かえって不都合だ。弱点にもなる。
 だから、時には殺気を消したり誤魔化したりする方法や戦術だって必要だし、
 あるいは殺気を上手く操る術だって必要ってことさ。つまり――こんな感じで、ね」


 こんなってどんな――


「――――ッ!!?」


 後ろからの、殺気。それも、とてつもない強い気配。
 まさか、ヴァルカン!?

 話術で時を稼いで、背後からの強襲だなんて、卑怯ね!
 いいわ、まずは後ろからくるヴァルカンへ、拳を――

 ……ッッッ!


「……なッ!?」


 手ごたえが、ない。
 当たらなかったわけでもない。
 避けられたわけでもない。

 それもそのはずだ。

 そこには、誰もいな――


「――――な――ん、で……ッッッ!」


 気づけたのは、本当に運がよかっただけだった。
 ごくごく僅かな、聞き逃してしまいそうな微かな――砂利を踏みしめる音。
 それが、拳を振るったばかりの私の背後から、つまりエレコウの側から、偶然聞こえただけだった。

 ただ、聞こえた。
 それだけの事で、過敏な私の神経は全身の筋肉に急激な信号を送り、反転。
 膝から抱え込むように倒れ、丸まり、足首を基点に身を捻りながらの前転。
 ぐるり、廻り始めた私の髪の毛を、豪速で迫る何かが撫でる感触が、伝わってきた。

 いいえ、何か、じゃないわね。

 身を倒した勢いを利用して跳ね起きた私が目撃したのは、
 どこか感嘆とした表情を浮かべた……拳を突き出している、エレコウの姿だった。
 つまり、あと一瞬でも遅ければ、彼が触れていたのは私の髪の毛だけでなく、
 きっと、後頭部だったって事。

 砂利の音がしたから。
 たったそれだけの理由だけで、私は危機を逃れた。
 けど、もしここが砂地でなく人工の地の上だとしたら……。

 きっとその一撃は、届いていたに違いない。


「……おやまあ、なんていうか勘がいいとゆーか、耳がいーとゆーか。
 普通、この攻撃が通じなかった相手って、今までいなかったんだけどねぇ」
「…………い、まのは……今のは、何……ですか?」


 息も絶え絶え、驚愕の色を隠して私は尋ねる。
 もちろん油断は、しない。
 油断なんてできない。
 一瞬でも眼を離せば……きっと、次が来る!

 だから私は、軽く身構えながらエレコウの次の行動を待つ。
 もし何か妙な動きをすれば――どうにか、するために。

 しかしエレコウは構えもせずにこちらを見ている。

 ひょっとして、攻撃をするつもりが無い?
 それとも、こちらを油断させているだけ?

 考えれば考えるほどの、疑心暗鬼。
 術中に嵌っているようなものね……いいえ、最初の、
 そう、助言云々の頃から、私は罠にかけられていたのか。

 侮れない男。恐るべき男。

 獣殺し。
 そう、こいつは、こいつは私の――

 ――天敵、だ。


 ……しかし、それにしても本当に、何だったのだろう、あの殺気は。

 私は今、後ろから襲い掛かってくると思っていたヴァルカンの迎撃を行うつもりだったのに、
 実は後ろには誰もいなくて、そして振り向いた瞬間に、背を見せた私に気配も無くエレコウが、拳を振るった。

 言葉にすれば理解、もとい整理はつくけど……意味がわからない。
 先ほど襲い掛かってきた殺気は、何?
 殺気の主がいないのは、どういうこと?
 エレコウの気配が無かったのは、何故?


「あんまり手の内をばらすのは趣味じゃないんだけど、ま、いいか。
 今のは、というかさっきお嬢ちゃんに向けて使った技は……『闘刃』という」
「トウジン、ですか?」


 聞いた事の無い、不思議な響きの名前。
 それが、私に向かって放った……技?


「一言で言えば殺意を、強い殺意を自己の精神から切り離して、自在に操る技さ。
 己という名の形骸から解き放ち、形、重力、空間、時間、概念、
 ありとあらゆる軛から自由になって、初めて理解できる……『もう一人の自分』さ」


 ……意味が……判らない。
 それは謎かけ? 言葉遊び?
 私をただ、からかっているとでも言うの?


「いんや、ちがうね。もっと単純に考えりゃあいいんだよ。何も難しくなんかない。
 お嬢ちゃん、難しい事考えてるだろ? すると、次第に世界まで難しくみえちまうよ」
「人の心を読まないでくださいよ、もう……」
「わぁーるい悪い、そんなつもりじゃなかったんだけどねぇ。んじゃもちっと簡単にいくか。
 よぉは、自分の由縁を知り、自分の闘う意義を知り、自らの在り処を知ってなお、
 それに囚われず、ありとあらゆる束縛から『ジブン』というものを分離した時にだ、
 性欲だの食欲だのっていう不純な感情、考え方とかも『ココロ』から排除されるんだが、
 ココロの『分別』がある一定以上まで上手くいくと、純粋な攻撃衝動の塊――

 ――論者の言うところの、『修羅』と呼ばれる欠片が、心の底から現れてくる」


 修羅。その言葉に、ぞくりと悪寒が走る。
 それは、アドニス女史が、私の事を呼ぶときに使う言葉だから。

 意味なんて、知らない。
 興味だってなかった。
 だのに何故……何故ここで、その言葉が出てくるというの?


「『修羅』。心の底で埋没してる、飼いならせれない化け物のことさ、それは。
 誰でも持っていて、誰もが気づかないうちに封印してる、約束の獣だぁね。
 そいつを、上手い事慣らすことができるか、あるいはある程度制御できたときに――」


 瞬間――殺気。

 何の前触れもなく、エレコウが何かしたというわけでもないのに、
 左前方から突然途轍もないほどの殺意と気配が、私に向けて叩きつけられた。

 だけどそれは……殺気と、気配だけ。
 誰もいないし、何も無い。
 殺意だけが、ただ何も無い空間から、押し寄せてくる。
 まるで、見えない何かがいるみたいに。

 それこそ、『亡霊』のように。


「……とまあ、よーは好きな場所から殺気を出せる技術のことを、一部では闘刃って呼ぶのさ。
 んで、ま、お嬢ちゃんみたいに馬鹿正直に殺意を向けるよりもだ、
 こーやって不意をうって背後や真横から『分離』させた殺意を相手に叩きつければ、
 達人だろうと常人だろうと、それこそ獣だろうと、『殺気』を感じ取れる生き物である以上、
 そちらに注目するってわけだ。つまりこれが助言で、ついでに教訓ってワ、ケ、さ。
 『不用意に殺気を向けたり殺気を探る事に集中したら駄目だよ』ってね。
 馬鹿正直に殺意を向けて闘う奴ばかりじゃないんだよ、世の中の生きモンはさ。
 たとえばエレコウさんなんかそーだし、他に例をあげるならハックルだってそーさ」


 言いたいことは、なんとなくだけども理解はできたけど、まるで嘘のような話ね。
 殺意を個人の脳から外部へ照射させて、何も無いところに気配を発生させるだなんて、
 まるで魔術や超能力の類としか思えない。ほとんど、嘘としか思えない話ね。

 けどまあ確かに、この闘刃なら人だろうとヒトデナシだろうと、
 私のような獣であろうとも完璧に騙すことができるでしょうね。
 そして、気を取られているその隙を狙えば、一撃を与える事もできる。

 こんな恐ろしい技を、エレコウだけでなくハックルまで使えるというの?
 ……それこそ『怖い』話ね、エレコウ。

 でもね、エレコウ。
 もしこれを、私が使いこなす事ができれば。
 きっと、敵無しになれるでしょうね。


「なるほど……よく判りました。十分に、判りすぎるくらいにまで。
 では、貴方はこれを、この闘刃を、私に教えてくれるというのですね?」
「教える……ねぇ。悪いけど、闘刃ってさ、教えられたから覚えるって技じゃねーんだわさ。
 お嬢ちゃん、今エレコウさんが口で説明したけど、完全に理解はできてないでしょ?
 だったら、どうやったって教える事なんてできないね。ま、これを覚えたかったらだ、
 五十年ほど死線をくぐってみれば、そのうち目覚めるんじゃないかねー……。
 ま、闘刃も仏掌打も、教える気なんてさらさらないけどねー。仕方ないって諦めな、お嬢ちゃん」
「……仏掌打、ってなんですか。私、そっちの説明は聞いてないんですけど……」


 しまった、口を滑らせたか――なんて、わざとらしい顔を浮かべている。
 最初から全部説明すればいいのに、この男、話の引き出しを一々一つずつ開けるなんて。
 人をいらだたせる事に関しては、天才中の天才ね。


「そうだねぇ……ま、一言で言えば殺気殺しの拳。
 この拳は殺気や気配を一切持たない技でね、一部じゃ菩薩拳なんて呼ばれてる。
 殺気がないから予知が不可能、しかも腹筋なんかを固めて防御を固めようにも、
 気配も予感も読めないんだから、まともにぶち当たっちゃうんだよね。
 つまり、回避不能、防御不能、そして威力は岩も砕くほどに強烈だ。まともに当たれば、死ぬよこれ」
「…………死ぬような技を私に使ったって言うんですか、アナタは……」
「いや、何、だってお嬢ちゃんは人間じゃないし、別にいいかなって。
 あの宰相殿と戦って無傷なんだもん、このくらい当てても死にゃあしないでしょ」


 けらけらと、笑いながら言ってのけるこの男の考え方はちょっと怖い。
 実際に受けてはないから威力の程は知れないけど、後頭部にそんな技を向けるなんて、ね。

 ひょうきん者を装っているようで、中々に、外道ね。
 少しだけ相手をしよう、だなんていう割には容赦も何も無い。
 確実に、獣を殺せる技を、私に向けていた。
 油断なく、私に先手を取らせることなく、言葉を数度交わしただけで術中に嵌めて、だ。

 大乗。
 獣殺し。
 野蛮な少年王。
 快王、エレコウ。

 私は、
 アナタが、
 底の知れない貴方が、
 途轍もなく『怖い』ですよ。


「……で、そちらの技も、貴方は教えない、とか言うんでしょうね、きっと」
「おや、言うねお嬢ちゃん。先読みはエレコウさんの十八番だっていうのに。
 ま、その通りさ。人間、筋肉の断面積の厚さが分厚いほど純粋な腕力が強いんだけどさ、
 お嬢ちゃんはそんな細腕のくせにめちゃくちゃ力ありそうだしね。
 こんな技覚えなくても、人間なんて一秒もあればひき肉だろ? いらねーじゃん、技なんてさぁ」
「けど、その仏掌打や闘刃を覚えれば、私はより強くなれ、
 そしてより効率的に人間を『解体』できると思うのですが……?」


 そう。私はもっと強くなれるということだ。
 それは道具としての性能を高める事にもなるし、使い道の幅を広げる事にもなる。
 更なる力をつければ、私はもっとお役に立てる。より価値のある存在になれる。

 それが、道具として生まれた私の持つ、『願い』であり――『欲望』。

 『幸福』をもたらすもの。
 それが私……ティカと名づけられた、私。

 だから私は、力が欲しい。
 それが、私が私に必要としているものだもの。
 『幸せ』をつかめる力が手に入れば、私は、私は――


「ま、確かに一時的には強くなれるかも、ね。そりゃ、一時的には、さ。
 けど、そうだね……覚えて一ヶ月もたったころには、君はもう誰にも勝てなくなるよ」


 ――想いを、この男は言葉で、打ち据えてきた。


「勝てなくなる、とは? 何を言ってるんですか、貴方は。
 どうしてですか? 技を覚えて、かえって弱くなるとでも言うのですか?」
「なんだ、判ってるじゃない。そぉだよ、お嬢ちゃん。いいや、ティカ。
 よく聞きな。アドニス=アハレイによって造られた君に、ウソ偽りなく話をしてあげよう」



続く