MOON CHILD -Addicted to power-
その拳は風切り音を纏って迫る。狙いは正確――おそらくは、鎖骨。
直線的な動きは見切るのもたやすい。だが、それを受けることはできない。
当たれば一撃で死ぬからだ。
右足首を軸に身を捻りながら身体を落とし、返す左足で相手の足を掻っ攫う。
が、それを相手は予測――いや『目視』してから回避する。
一瞬の間を置いて即座に眼前から消え去る『敵』を、男は迫るように追う。
突き出されたのは右の抜き手、狙うは肋骨の隙間か。
だがしかし、やはりというべきか。
先ほど放った『ほぼ死角』からの足払いと同じく避けられ、今度はその腕を掴みにかかってきた。
鋭い爪を持つ獣が踊りかかるように、相手の両腕が迫りくる。
それを男はさながら蛇のように間接をくねらせながらするりといなし、
その返礼とでも言わんばかりに鋭い一撃を手首に突き刺す。
効果は――いや、いまひとつ、か。
並みの相手ならば骨の一つも砕けるが、相手はその『並み』の範疇を超えた存在。
痛みを与えることはできようとも、効果的な一撃など望めるはずもない。
素手での殴殺は不可能に近い。相手は『化け物』なのだから。
だから、か。軽く手首を振って数度調子を確かめたかと思えば、すぐにも男に飛び掛る。
その動きはやはり馬鹿正直なまでに直線的。いや、むしろ『わざと』と呼んだほうが正しいか。
常人には視認すらできない超、超高速の踏み込み。
達人が言うところの『縮地』あるいは『奇門遁甲』『無我の域』とでも呼ぶべき、圧倒的な速度。
限度を超えた速度はあらゆる武器にも勝り、同時に揺ぎ無き常勝をその者にあたえる武威となる。
ありとあらゆる達人でも鍛えるのが最も困難な速度、それをたやすく凌駕するそのものの速度は、
果たして眼前の男に通じるか、通じないか。
『馬鹿走り』が男に重なる。
まばたき一つの間のうちに詰める相手を見てなお、男は怯えることなく拳を振るい笑みを浮かべる。
笑みの意味は何か。あまりの恐怖に気が狂ったか。あるいは怯えを隠すための虚勢か。
いいや、答えは否。
怯えることなどない、恐怖など感じもしない。
ただ不敵に笑い、構え、相手を向かいうつだけの事。
ただそれだけの事。
流れるように無駄のない、最小限の動きで一撃一撃を払う。
まともに当たればどれもこれも、必殺の一撃、ただでは済まない。
だがこれを男はさも羽虫の類を払うかのように捌く、捌く、捌き続ける。
視認してから行動するのでは防御が決して間に合わないその『馬鹿正直だが早すぎる一撃』を、
武術家としての経験と勘のみで、目で見ることなく受け続けている。
相手は五臓六腑と大関節に狙いを絞っている。そして動きは直線的。
一辺倒でなんの捻りもない猛攻など、攻撃順序の『予測』と『勘』で受けきることは造作もない。
肝臓――身を捻りつつ肘を当て――心臓――肘当ての反動を利用し掌底を叩きつけ――
再度の心臓――今度は左の拳で迎え打ち――腹腔――左後方へ下がり追撃を抑える。
瞬く間の攻防、刹那のうちの死線。
相手に足技がないのと幸福か、あるいは今だに『馬鹿正直な直線』を止めないのを行幸と捉えるか。
だがしかし『直線』とは、最も速度を生かすことができる軌道だと考えることもできる。
だとすれば、相手の幾たびかの猛攻も、その自分の持ち味――圧倒的なまでの速度を生かすため、
あえて選んだ手法なのかもしれない。
だがそれは男には通じない。
男は常人でもなければ達人でもない。達人以上の超達人でもない。
それ以上の人間――世に十二人しか名乗ることのできない、武術者たちの『王』なのだから。
通じなければ、どうするか。
通じるまでただひたすらに同じ動作を続けるか、あるいはがらりと手法を変えるか。
彼女はどちらかを選ばなければならない。男に倒されないうちに、男を抑えている今のうちに。
そしてそのとき選ばれた選択は――何合めかの交差のうちに、突如の曲線が混じることで答えを明らかにする。
不意をうった超速度の、しかし直線に比べれば幾ばくか『遅い』一撃はするりと男の防御を抜け、
しかし身体に無理を言わせるような急激な捻り――回避行動によって頭を捉える事はない。
が、布石は十分。相手の足取りに先ほどまでの切れはない。体勢を崩しさえすればこちらのもの。
そして今まで抜き放たれることのなかった左脚が宙を駆け風を切る。
捻り後ろ回し蹴り、上段。掠るだけでも脳を粉砕する、必殺の一撃がそれだ。
まさしく必殺。かろうじて防御の間に合った相手の左腕を押し切り、その左の曲線は頭部へ――
――瞬間、廻る。
ぐるり、天と地が判別することができなくなる。
その身は軽く、まるで鞠でも弾んだかのように空を飛ぶ。
否、墜落する。
地に叩きつけられ、跳ね飛ばされ、転がり、そして止まる。
仰向けの顔が見るのは蒼い空と白い雲、それと淡い風の匂い。
絶対の威力を誇る一撃を、その有り余る威力を糧として投げ飛ばされた。
それに気づけないほど、彼女は愚鈍ではない。
「今日はこれまで、だな。ティカ、敗北の味はどうだ?」
「一言で言えば、『獣』が『人』に負けるなど、どういう了見だ――と、いったあたりでしょうか。
付け加えさせていただくなら、後でアドニス女史への報告で頭が痛い、といったところです」
「よく言うものだ。これではどちらが敗者かは判らぬものだ」
見れば、彼――ユリウス・アムステラの左腕は軽く赤みがさし、早くも腫れが広がり始めている。
あれでは相当の痛みが走ることだろう。だが、それをおくびにも出さないのは、さすがは『王』といったところか。
その様子では骨までは痛めていないだろうが、しかし一撃を与えた代償と考えるには、あまりにも高くついている。
対するティカはといえば、最後の攻撃に入れられた投げ以外、これといった攻撃を受けてはいないからだ。
たしかに遠めから見れば、片腕とはいえ軽度の傷を負ったユリウスと、
投げ飛ばされたとはいえ怪我らしい怪我一つないティカとを比べれば、果たしてどちらが勝者に見えるか。
だが、ユリウスがあえて『反撃』を行わなかった、と考えれば……この立場は逆転する。
その場に見る『眼』をもった人間がいればそれに気づいただろう。他にも、色々な点に。
たとえば、呼吸一つ乱れることなく防ぎきり、汗一つ垂らすことなくいなしたその男の不条理さを。
たとえば、幾度となく攻撃を払ったはずの拳や肘が、まったくの無傷である事を。
たとえば、お互いに笑みを浮かべ、微笑みあいながら打ち合っていたことを。
ティカの『笑み』は、いうなれば『処世術』とでも呼ぶべきもの。
対しユリウスのそれは――完全なる『余裕』。
常時笑みを浮かべることができるほどには、彼には『余裕』があった、ということだ。
確かに、確かにこれではこの勝敗は明白だ。
だのに、彼女にもどこか『余裕』が感じられるのは気のせいか、あるいは生来の雰囲気のせいか。
「それこそ、こちらが『よく言うものだ』と返させてもらいましょうか。
獣の一撃をやすやすといなされるようでは、私とすればどうすればいいのやら……と」
「ならば余はこう返そう。『獣が言い訳とは可笑しい事をおっしゃいますね』とな。
最近の獣は、どうやら口達者なものばかりの様だ。知恵を持った獣は、もう獣とは呼べぬだろう」
「ではその獣には『愛玩動物』だとか、『多幸福な小娘』とでもお名づけすればよろしいのでは?」
「ふ……これだから知恵のはたらく獣は困る」
くすり、互いに笑う。
とても先ほどまで死闘を繰り広げた相手同士とは思えない有様だ。
とはいえ、二人は本来ならば主従関係で結ばれた、部下と上司。
冗談を交し合う仲と呼ぶには些か語弊があるものの、
先のような殺し合いを繰り広げる間柄ではないことは確かだ。
「しかし、ずいぶんと不思議がるものだな。それほどまでに意外な事柄に思えるのか?」
さらり、彼は話題を戻す。
そんなことを思うことこそが、あたかも『不思議』極まりない、そんな表情を浮かべながら。
彼としてはそれは当然の事、だのに彼女にとっては不条理。
それが理解できない彼にとっては、彼女の真意は気にかかる事柄なのだろう。
「よいか、『武』とは弱者が強者に抗うために生まれたもの。
自分より強いものに立ち向かうために生まれた『技術』と、その『心』そのものの事だ。
そしてそれは長い年月をかけて培われ、幾度となく磨きをかけられたのが今の『武術』。
お前は確かに強い。確固とした強者に値する、正真正銘の『怪物』だ。
だがお前には、悲しいかな、『歴史』が浅い。
たとえお前が人の何十倍の密度で修練を重ね、己を磨こうとも……『武』そのものの歴史には勝てぬよ。
年季が違う。四千年を超えるアムステラの流れには、お前は決して立ち向かえない。
それに、だ。お前は『強者』だ。決して『弱者』の側にはない。あるいは『獣』と言い換えてもよい。
立ち向かうべき『相手』がなく、佇むべき『場』もないお前では……武の最上位に抗うことは不可能に近い。
それでは、決して余には勝てぬだろうよ。
……もっとも、ただ『殺す』だけなら可能だろうが」
殺すだけ、とその部分にだけ意味深な含みをこめ、男は目を細めて言う。
その言葉の意味とは、果たして毎夜の伽の艶事を指しているのか。
あるいは先の手合わせで感じた、僅かな『手加減』だろうか。
どちらにせよ、確かに彼女は主人を『殺す』ことはいつでも可能だろう。
寵愛を一身に受ける身としては、その機会はいつでもあり、どこにでもある。
だからこそ、だろうか。
やれるものならやってみせよ、そう言いたげに、彼は口にしたのだろう。
「いいえ、恐れおおくもそのようなことは決して、ええ決していたしません。
私は貴方様の道具にてございますから、そんなことは考えたりしませんよー、あはっ」
そして彼女は大げさに茶かし返す。しかし決して、『それ』を否定はしない。
まるで、自分にならできる、と自信を示すかのように。
「食えない女だ、お前は」
「お褒めの言葉、光栄でございます。けれど、そういう女をはべらす貴方様こそ、
正真正銘の食えない男じゃないですか。最も、臥所では互いに食い食われあってばかりですけど」
「……食えない女だ」
今度こそ、明らかな失笑を浮かべて男は手を伸ばす。
その手が触れたのは、和毛のように柔らかな彼女の髪。
あたかも犬猫にするように頭を撫でながら、男は、振り返りもせずに言い放つ。
「さて、いつまでそこにいるつもりだ。いい加減出てきたらどうだ、のぞき屋」
「あら〜……ばれちゃってたかい、そりゃ残念だ、残念残念」
返す言葉は、近くの茂みからのそれだ。
がさり、音を立て割って現れたのは、まだ二十にも届いてなさそうな青年。
彼女の見知らぬ青年だ。
ふわり、手のひらに動物の跳ねる手触りがしたがと思えば、すでにそこには何の感触もなく、
音もなく立ち上がり彼の目の前で構える少女の姿があった。
「問います。自分の所属する軍籍と名前をお答えください。
虚偽交じりの返答や不振な行動は命にかかわりますので、重々お気を――」
「よい、警戒する必要はない」
「――ッ!? しかし、ユリウス様――」
「よい、と言っている。この男は一度として軍に所属したことがないから、たずねるだけ無駄だ。
そもそも、この男と余は知己だ。お前が危惧するようなことなど、一切合財ない。絶対に、だ」
「……は、失礼いたしました」
しぶしぶ、といった感で彼女は拳を引く。
腹心であるオスカー卿や、手駒であるガフなどといった武将ならいざしらず、
自分の知らぬ男が、何の前通達もなく不用意に接触を図ってきた。
それも、見る限り何の礼節も持ち合わせない、ただの青年一人が。
見知らぬ相手が己の主人に近しい。それは彼女にとってすれば、あまり気の入らない事柄だ。
「いつの間に、こんなおっかないお譲ちゃんを引っ掛けたんだか……。
やれやれ、宰相ってぇゆーのはそんなに女にもてるもんなんかねー」
「余をからかうためにわざわざ来たとでもいうのか、エレコウ。暇をもてあましているのか?
羨ましい話だな、どうせなら余の仕事の一割ほどでも、お前が請け負ってくれるとありがたいのだが」
「お断り。生憎と、エレコウさんは働く意欲がまったく無くてね……だからこうしてタカりにきたわけで」
「…………」
青年――エレコウと呼ばれたその男のずけずけとした物言いに眉をしかめたものの、
主人であるユリウスが許したのであれば、それは仕方の無いこと。
しぶしぶと、しかし笑みは決して絶やさずに、彼女は音を立てることなく下がる。
「お前はいつもそう言うな。人の上に立てるだけの器量はあるだろうに、冗長を好むばかりだ。
……まあ、よい。近いうち、先の大戦で発見した宇宙怪獣の群れを倒さねばならん。
もしお前が、それの討伐部隊に志願すると言うのならば、お前の言い値で払ってやってもよいが?」
「とおってもお断りの気分だぁね、エレコウさん的には。限度のない金だなんて、持ったところで身の破滅さ。
程々が一番だよ、程々が。それに、このエレコウさんが軍の規律に従える、だーなんて冗談でも思ってたりする?」
「しないな」
「そ。だからエレコウさんは残念ながら、せっかくのお誘いはお断りなのさ。
つーワケで、いつものようにお金ちゃんを送ってくれれば大満足ですよ、エレコウさんは。
ま、代わりに、その宇宙怪獣の巣ってやつには同行しないけどさ、
群れから離れた『はぐれモノ』なら、何匹か狩って『あげてもいい』から、それでどうかな」
あげてもよい。男はこともなげにそう言ってのけるが、どうにもやる気を感じさせない。
口先だけで提案しているのか、はたまた冗談半分で言っているのか、これでは判らないというものだ。
そもそも、それ専門の機兵部隊を一部隊編成しても、単体相手でさえ苦戦する力を持つ怪獣を、
まるで朝食扱いにするその言い様は、誰が聞いてもさすがに本気と捉えることはできないだろう。
特に、先の出動でその怪獣相手に犠牲を出したハイヌウェレとしては、だ。
だが、どういうわけだろうか。
誰が聞いても冗談以外の何物にも感じられないその言葉を、
「ならばよし」
――まるでその答えを望んでいたかのように、ユリウスは頷く。
「では、金は後で追って届けさせよう。……用件はそれだけか?」
「まるで今すぐにでも追い出してやりたい、と言いたげな口振りだね。ま、いいけどさ。
生憎とエレコウさんは旦那の艶事事情に口出しするつもりはまーったくもってないしね。
それじゃーお金ちゃんの件、よーろーしーくーねー。つーわけで、後は二人でごゆっくりどうぞ、と」
そして道化は、最後まで道化て去っていく。
軽薄そうな笑みを浮かべながら。
その背を見送る男の顔には信頼が、女の顔には不信感が漂う様が、
ある種の滑稽さをかもし出しているが、自分でもそれが気に食わないのか彼女は少々不貞腐れていた。
「……よろしいのですか、ユリウスさま。あのようなものを信頼なさっても」
「あのようなもの、か。ずいぶんな言われようだな、あの男も。
気にかかるか、あの男の事が。それとも、女の嫉妬、とでもいうやつか?」
「道具としての本分、という観念でお考えください。人の雌で言うところの『嫉妬』とは、異なるものかと。
それとも、アレに嫉妬し身もだえする私の姿を、是非にも見たいとでもおっしゃるなら、そう『演じ』ますが?」
「愉快な女だ……自己を卑下してなお毅然としている。ただの道具で済ませるには、惜しい女だよ、お前は」
「お褒めに預かり恐悦至極、とだけ返しておきましょう」
さらりと揶揄を交えて返すのは流石、といったところだろうか。
しかしあえて否定はしないと言うところが、ティカらしいといえばティカらしい。
「しかし、あの男……エレコウといいましたか。一体何者なのでしょうか」
「……そうか、お前は『あれ』を知らないのだったな……。
あれは、余と同じ『快王』の名を持つもの……大乗流のエレコウ、獣殺しのエレコウだ」
「……だい、じょう…快王ッ……」
快王とは、アムステラの武術家たちが目指す『武』の頂点に達した者が名乗ることができる称号。
その称号――『王』たる名を持つユリウスその人が、自分と同じ『王』だと、そう言ってのけた。
それが意味する事とは、すなわちあのふざけた男がユリウスに並ぶほどの才気をもつ、ということ。
にわかには信じがたい事だが――だがしかし、この主人が、ユリウスが認めるほどの男だ、
きっとそうに違いない……いいや、それ以外にありえはしない!
ティカは振り返り、去っていった男の名残でも探すかのように視線を向ける。
年はいくつだったか――少なくとも外見は、少女と同等か少し上――
体格はどうだったか――筋肉質とは呼べないが、しかし決して痩せぎすとはいえない――
脚運びはどうだ――拳骨は――身のこなしの様はどうだったか――
――どう思い返してみても、人並みのそれ。
ごくごく自然体で歩み寄り、何の警戒心も見せなかったあの様からは、武術の心得があるようには思えない。
だが、彼女は考える。
彼女の主人、ユリウスよりも一回りは年が若いというのに武の王を名乗る男だ。
それこそ才覚においてはこの主人よりも上回っているのかもしれない。
あるいは、特定の分野においては『凌駕』しているのかもしれない。
だとすれば、彼を高く評価しているのもうなずけるというものだ。
「ふむ……あれに興味が沸いたようだな。無粋な女だ……余の前で、他の男の背を追うなどとな」
「先に話題を振ったのは、ユリウス様のほうですよ。
まあ確かに、興味の尽きない男だ、という点は認めますけれども」
「フ……言ってくれるものだな。だがそうだな……いい機会かもしれん。
ティカ、お前は一度、あの男にでも揉まれてこい。それも一興だろう」
「…………は?」
思わぬ台詞に間の抜けた言葉を返す彼女を、主人は冷めた目線で、しかしどこか愉悦交じりに見返す。
「妙な声を出すな。あれはああ見えてもだ、余が一度として勝てたことの無い男だぞ」
「なん……ですと……? け、けれど、それとこれとは話が別ですよ。
強いからとはいえ、なぜ私があんな男に抱かれなければならないのですか?」
ティカの脳裏に浮かぶのは、一人の脂ぎった小太りの男。
先の『任務』で『仕方なく』相手をした、あのウドランの事だ。
しぶしぶとはいえ、あんな男に触れてしまった事実は、ティカにとっては消し去りたい記憶だ。
思わず、あの時の感触を思い出してしまい、背におぞ気が走るのも仕方の無いことだろう。
そんな彼女の姿を見て、主人はにやりと笑みを返す。
「何か勘違いをしていないか?
余は揉まれてこいとは言ったが、それはあれ相手に鍛錬を積んでもらえという意味だ。
別段、臥所でよがり狂えだとか、寝床を襲えと言ったわけではないのだが、何を想像したのだ?」
「………………意地の悪いお方ですね」
からかわれた。そのことに気づき軽くふて腐れてみるものの、
むしろユリウスの告げた一つの事実にこそティカは驚きを禁じえないでいた。
ユリウスが勝てないほどの相手とは、一体どんな腕をもっているのか、と。
「ともかく、だ……あれに師事を乞うのは、お前にとっても益となることだろう。
……気に食わんのなら、少し昔話をしようか。あれと始めて出会った日のことを――」
続く