この物語は、あるサラリーマンパイロットの戦いの物語である。


企業戦士安藤

第1話 『318000円也』




この就職難の中、転職先としては理想的な環境に潜り込んだぞ…と喜んだのは三年前、まだ二十代さ!と言えた頃だ。それから三年、俺の現在の給料…何に使われているかよくわからない税金やら何やらを差っ引かれた後、残るのが318000円也。

一定の額を行ったり来たりしている預金通帳を眺めていると、とあるボーダーラインがうっすらと見えてくる。その辺まで貯まってしまうと、気が緩んで、同時に財布の紐も緩んでしまうらしい。周期的には一年間隔でその緩みはやって来る。これを大学を卒業してから十年近く繰り返しているのだ。なんて学ばない男なんだ…と嘆いてみるが、当たり前のことだが自分のことだ。

「ん〜〜〜〜〜〜…」

畳に寝転がりながら男は通帳を睨み付ける。男の名前は安藤貞治(あんどうていじ)。ちなみに貞治という名前は、彼が生まれる前後、彼の父親は月に二回しか自宅に帰る事ができないほどの社畜な暮らしを強いられていた。運良く、息子の出産には立ち会えたものの、息子にはこんな風にはなってほしくないと、『定時で帰れる子に育ちますように』という余りにも謎な理由で命名されたらしい。

話を戻そう。安藤貞治はある悩みを抱えていた。貯金通帳をじっと睨んでいるのも自分の散財癖を恨めしく思うのが一割、後の九割、それは今日の昼間に起きた出来事に遡る…。そう残りの九割は、今日の昼間に突きつけられた自らの過去に対する葛藤だ。







カタカタとキーボードを規則的に叩く音がオフィス内で響いていた。今日は出払っている同僚も多く、室内でパソコンに向き合っている人影は少ない。

午後二時を回ったところで、安藤はじっと見つめていたディスプレイからいったん目を離し、キーボードを叩くのを止めて、軽く目頭を押さえた。軽く背を伸ばして、首をコキコキと鳴らしていると、背後にすっと気配を感じた。

「安藤さん」

声をかけられた。それもこの声は余り聞きたくは無い声だ。振り向くと案の定、ミス田島"嬢"が立っていた。

「話があるんだけど、いいかしら」

ハスキーボイスと言えば聞こえはいい。しかし彼女のそれは感情がまるで感じられない。それどころか威圧的な冷たさに満ちている。

「なんでしょうか?ちょっとまとめなきゃならない書類が溜まってまして」

「それは後で済ませればいいですから。こちらのほうが重要な話ですから」

「えーっと、ちょっと待ってください。一回こっちを保存しますから」

慌しくまとめかけた書類を保存する、カリカリと小さな音を立てて、パソコンはデータを上書き保存した。

「ここではアレな話ですから。会議室…四階の第二で話しますから、来てください」

面倒な話なら断りたい。俺は親父の願いをできるだけ叶えるべく、定時に帰れそうな時は意地でも定時に帰ることを使命にしているのだ。しかし、断ればあの凍りつきそうな視線と言動がことさら凍てつくことは間違いない。ましてや彼女はミス田島"嬢"だ。どの部署にも暗黙の了解がある。その一つが『彼女に逆らうな』という理不尽なものだった。

彼女はスタスタと先に会議室に向かっていってしまった。やれやれと立ち上がり、昼に飲み残したお茶のペットボトルの残りを飲み干し、気合を入れなおした。しかし…はて?俺、何かやらかしたっけか。


廊下に出ると、すでに彼女の姿はなかった。エレベーターのランプを見ると一台が移動している。…普通待たないだろうか?
やれやれともう一台のエレベーターの昇りスイッチを押すと、また後ろから声をかけられた。

「ちゃっす、先輩」

「おう、岩田か。どうした」

「んー多分っすけど、先輩と同じかもしれないっすね」

「何だ、お前も彼女に声かけられたのか?」

安藤は自分より一回り背の低い後輩を見やった。お互い視線を一度合わせるとムムムと考え込んだ。

「先輩…やっぱあれっすかね?先々週の金曜のあれっすよ」

「お前が酔っ払って飲み屋のテーブルの上で全裸になったあの件か?」

「いや、その後先輩が電柱に長々と説教しててギャラリーまでできちゃった件じゃないかと」

どうやらお互い自分の都合の悪い部分は覚えていないらしい。

「どちらにしろ…俺とお前で共通点のあることだな、どうやら」

「飲むと色々悪さしてるっすからねー先輩も俺も」

岩田は、はぁ…とわざとらしくため息を吐いた。

「お前ほどじゃない」

「ちょま…先輩ほどじゃないと俺は思ってなかったっすよ」

岩田の大げさなリアクションと同時に目の前のエレベーターが開いた。

「ともかく行ってみよう。俺は全力で自分の無罪を主張するぞ。悪いのは俺のことをおにいちゃんと呼ばなくなった姪っ子だ」

「その内容を延々と電柱に語りかけるのもあれでしたけどねー」







「どうぞ。座ってください」

会議室の中には先客が二名いた。一人はミス田島"嬢"である。残りの二人には面識は無い。年齢は俺と同じくらいだろうか?目が合うと丁寧にお辞儀をするあたり、上司というわけではなさそうである。

「(おい、どうやら叱られる訳じゃなさそうだぞ)」

「(そうみたいっすね)」

「何してるの?さっさと座りなさい」

「はいっす!」



俺と岩田、そしてミス田島"嬢"と若い男の四人、空調の低いうなり声しかしない室内で、ほんの少しの間だけ、静寂があった。

「では集まったので、私から説明します、門倉さん」

「はい、お願いします」

門倉と呼ばれた男はニコニコとしながら手元の書類を俺と岩田に渡した。

「…田島工業新規市場開拓における新部門設立にあたって、ってなんですかこれ?」

「説明するから黙って、いいわね」

まるでシャッターだ。ぴしゃりと止める。

「知ってると思うけど、我が社は工業機械や重機などを製造販売してるわ。他にも警備用の小型のロボットなども小規模だけど作ってる。知ってるわよね」

「ええ、警備会社などで使われる無人の警備ロボットですよね」

「それとは別に新しい市場を開拓する…というより進出することになったのよ、今回ね。貴方達も知ってるでしょう?ここ数年の地球の事情。それに伴ってその手の産業がここに来て大いに盛り上がってきているの。そこで我が社もその産業へ進出することが役員委員会で決まったわ」

「兵器産業に?」

「ええ、ここに貴方達二人に来てもらったのは、私の受け持った部門のプロジェクトチームに入ってもらうためです」

急な展開が続きすぎて俺も岩田もポカンと話を聞いていた。

「田島工業は兵器産業への進出に関して幾つかの部門を作りました。その中の一つ、二足歩行による自律機動が可能な兵器…今現在世界各国の軍隊や特殊な部隊などでも用いられてるものよ。それを作ります。ここ多摩支社でも三つのプロジェクトチームが組まれますし、他にも本社や他の支社などでも同時に開発が行われる予定です」

ポカンと口も開いてしまった。なんだって?ロボを?作る?俺達が?

「君達二名をここに呼んだのには理由があってね。岩田くん、君の今所属してる部署で研究してる流体金属間接、あれをこのプロジェクトで使いたいんだ。もちろん、君達だけじゃない。他にもかなりの人数が引っ張られるだろう。多分、全部で八十人くらいかな?社外からも"その手"の専門家も招くし、何せ計画が計画だ、政府からも何人か派遣されるだろう。これは田島工業全体の大きな転換期だと思ってほしい」

「安藤さん、ここまで言われればもうわかっていると思いますが、貴方にはテストパイロットをお願いします」

兵器という言葉が出た瞬間、俺はそれを意識し始めていた。

「貴方の前の仕事先、会社が入社時に調べないわけはないでしょう。IHI社でテストパイロット四年間経験。大学時代の研究室での経験を買われて抜擢されていたそうですね。学生二足歩行ロボットコンテスト日本大会準優勝の経験をね」

「…随分、詳しいんですね」

「安藤さん、貴方がIHI社にいた頃何があったのかは私は聞きません。意味、ありませんから。ただ貴方は過去にそういった経験がある。それも国内では数少ない世界的軍需産業メーカーの一つだったIHI社のテストパイロットという過去。そんな過去を持つ人材がいるのであれば、我が社としてはそれを活用しない手は無いですから」

ミス田島"嬢"は本当に…本当に平坦な口調で語る人だ。

「安藤さん、いい話だと思いますよ」

門倉という男のニコニコ顔は変わっていなかったが、目だけは笑っていなかった。

「IHIとは違う。ここは本当に日本の民間企業ですから、ヤバイ話はどうやらないようです、私もね、実は数年前まで貴方と同じIHIの社員だったんですよ。でもまぁ、ご存知の通り色々あったわけです。そして少し前に、このプロジェクトに誘われまして。こうして田島の社員証を付ける事になったわけです。ちなみに今回、私が機体の基礎設計をやらせてもらいます。二足歩行タイプは初めてなんですけどね、がんばらせてもらいますよ」

この男、しゃべりだすと止まらなくなるタイプと見た。

「話を戻します」

俺はというと頭の中にチラつく嫌な思い出を、脳裏に浮かんでは千切り捨て浮かんでは千切り捨て、実の所この会議室でこの後話された内容について、細かい点は殆ど覚えていない。ただ給料が手取りで三万円ほどアップする、ボーナスは年二回から三回になって額も一月分上乗せされると、何故か金銭面のことだけは冷静に聞きていた。

彼女はそのあともなんだかよくわからない、偉そうな話を話し続けた。

「…大まかには以上です。明日から部署が変わりますから、今日の残りの時間はその辺の整理をお願いします」

「ちょっと待ってくれ。明日からって言われても、今の仕事の後任がすぐ来るにしても引継ぎだのなんだのあるし、明日からいきなりってのは無理だ」

「安藤さんに関してはその点も考慮する必要はありません。というよりは引継ぎはしっかりしてほしいですね。何せまだ何一つ形にはなっていませんから、テストパイロットとしての仕事が始まるにはまだしばらく時間がいります。その間に、しっかりと仕事の引継ぎ、終わらせて置いてください。岩田さん、貴方は私のほうから今の研究チームの上のほうに話はもう通してありますから」


それが今日の昼の出来事。

俺の過去を掘り出しやがった出来事。それは仕方が無い。別にばれたからといってどうにかなるわけでもない。昼間だって、しばらくしたら俺は妙に冷静になっていたじゃないか。暗算で年収計算までしていたじゃないか。

いや違う。ぎゅっと目を瞑る。目先の給料を冷静に暗算してしまうくらい、過去の出来事がどうでもよくなってきているのに少なからずショックだった。数年前のあの出来事は間違いなく、俺の人生の中で一番の衝撃だったし、これからの人生、あれほどショックのでかい出来事はもう起こらないだろう。そう思っていた。

ロボット工学が好きだった。だから大学でもそういう研究室に入った。勉強もした。そして超一流のエンジニアにはなれないとわかりつつも、その場所で楽しんだ。だが俺にも才能があった。それが操縦技術だった。エンジニアにはなれなくとも、ロボット工学の側に居られる。そう思って卒業後、その世界に入った。そして…。

悩む。すでに部署転属は決定事項だ。この話を断るということは会社を辞めるということだ。それは辛い。このご時世だ、いい仕事なんて見つかるはずも無い。この件を飲めば、更に給料まで上がる。それに何より、それが一番意外だったのだが俺はもしかしてもう一度操縦桿を握ることを、心のどこかで喜んでいるのではないだろうか?IHIでテストパイロットとして働いていたあの頃が一番楽しんで仕事ができていたんではないか?

もちろん、辛い出来事があった。それが原因で俺はIHIを辞めた。そしてその直後からIHIは企業として傾き始め、俺が退社して一年後、倒産した。それを俺は田島の今のデスクに座りながらふと覗いたニュースサイトで知った。その時も、実は今と同じような感情を抱いていたのだ。でもその時は、それがどんな感情だったのかはわからなかった。だが今ならわかる。これは郷愁だ。俺は心のどこかで、あの空間に戻りたいと願っているんだ。もはやそれは確信に変わっていた。

立ち上がり、通帳を裏に隠す。我ながら安易な隠し場所だ。

俺は戻りたいんだ。あの薄暗い、無骨な鋼鉄に囲まれた操縦席に。







『旧IHI社静岡研究所事件』

私がこの事件に興味を持ったのは、今回のプロジェクトで様々な人材を社内から引き上げるにあたり、ほぼ全ての若手社員の過去の職歴を調査し、そして彼の職歴に行き当たった。

安藤貞治…三十二歳、三年前に田島工業に入社、中途採用。現在は事務業務とデータ管理を担当部署で受け持つ。だがその過去は旧IHI社に勤務。無論旧IHIにも事務職は多数存在していたし、彼がその線で流れてきたことも十分ありえた。

しかし彼は田島工業への面接の際、過去の職歴を明かしている。そして今後は裏方で物作りを支えたいと希望し、今のポジションについた。本来彼は現場で働くタイプだ。テストパイロットとして旧IHIにいたというなら、当然だろう。

そして私はもう少し深く、安藤貞治について調査した。彼が今回の我が社のプロジェクトに必要な人材であるかどうかを。
そこで浮かび上がってきたのが、旧IHI静岡研究所事件である。彼はその研究所で勤務していた。

表向きに公表された事件はこうだ。
国外から潜入したテロリストによって、旧IHI静岡研究所は強襲され、研究所は破壊される。その際、研究所内にあった旧IHIの試作機が数台テロリストの手に渡り、阻止しようとした別の試作機と戦闘状態になる。その際、研究所敷地内を飛び出し、民間の住宅地に被害が出ている。死傷者八十九人の大惨事となった。この際、テロリスト側は旧IHIの試作機を破壊、戦闘を行ったパイロットは死亡している。奪われた試作機も、その場で破壊されたものが一機。残りの三機も自衛隊機によって破壊された。なおこの事件で生きて捉えられたテロリストは二名のみで、いかに戦闘が激しいものだったかが伺える。

さて、安藤貞治はそんな事件のあった研究所でテストパイロットをしていた。彼はその時、何をしていたのかはわからない。私が調べた範囲で判明していることは、安藤貞治も事件当日、その場所に居合わせていたということだ。

それ以上のことはわからなかった。だが特筆すべき点はテロリストが奪った四機の試作機のうち、三機は逃亡中、十機以上の自衛隊機を中破、または大破させている。それだけ高性能な機体を製造していた研究所で働いていたテストパイロットなのだ。利用しない手はない。

会議室から出て、門倉と私はこの先の勤め場所となるラボに向かった。その途中、もし安藤がテストパイロットの件を職を失ってまで蹴った場合の事を考えて、旧IHI社員のコネを使って代わりの人材を探せないかと門倉に聞いた。

彼はいつものようにニコニコとした表情を変えずに言った。

「パイロット連中はね、どうあってもパイロットなんですよ。特にロボット乗りと戦闘機乗りはね。私には理解できないけれど、彼等は総じてあの狭苦しい空間が大好きなんです。彼はこの件、飲みますよ。賭けてもいい」

「貴方が兵器を作る事を止められない様に、彼も操縦することに喜びを感じていると?」

「その通りです」

なるほど、そういうものなのかもしれない。


続く