野を駆ける獣
森を駆ける獣

牙よ その輝きは飢えてるか
爪よ その鋭さで引き裂くか



そこは、森の中だった。
 そこは、敵の近くだった。
 そこは、道無き道だった。

 木々の合間、岩々の合間を縫うように、獣は這い蹲りながら進む。四肢はしかと大地を踏みしめながら、前へ、前へ。
 物音は決して立てず、足跡は決して残さず、人の皮を被ったケダモノは進む。

 人の皮を持つ獣。少女の姿をした化け物。人為的に作られた特異遺伝子生命体。ハイヌウェレの名を与えられた少女。
 彼女は一人、暗い森の中を走る。耳を澄ませ、鼻を嗅がせ、そして時折立ち止まる。

 まるで、遠くにいる何かを探しているかのように。
 まるで、見えない誰かと対話しているかのように。

 彼女は生身で駆け巡る。
 鋼鉄の化身を脱ぎ捨てて。



Hainuwere #06 火宅か、修羅か



それは何時から送られていたのかもしれない、助けを請う弱弱しい信号だった。
 降下地点が大きくずれた部隊の、救難信号。敵に探知されないように『吾亦紅』に設定された独自の専用回線を使い、日に二回数分ばかり流す電信。

 だがその電信は、あまりにも貧弱にすぎた。
 あたかも鯨の心音のようにゆっくりとした静かな波長のそれは、敵や味方の通信が飛び交うこの大地の上では掻き消えてしまう、ほんの微かな音。

 誰にも気づかれないまま見過ごされていた。
 その時までは。
 その時までは。

 最初にガフが奪い取った基地は、『運び屋』ベイリが運送してきた物資によって強固な要塞と化すと同時に、アドニスの手によって電子機能の大幅な向上にも成功していた。
 その成果だろう、決して誰にも聞き届けられなかった悲鳴が、ようやく彼らの耳にも聞き届けられたのだ。

 すぐにでも救出の部隊を繰り出さんと計画を練るのだが、あまりにその場所が彼らにとって悪すぎた。
 こちらの占領区域からは大きく外れた密林。しかも付近には敵の駐屯部隊がいる。もちろん森に火でも放てば追い払えなくもないが、そんな事をすれば救助を待つ自軍の遭難兵も道連れとなってしまう。

 打つ手はほとんどなく、しかし事態は一刻を争う。どれほどの人数がどれだけの食料をもって遭難しているのかは不明だが、しかしこれ以上手を拱いていては死傷者も現れるだろう。いやそれどころか、すぐ真横にいる敵部隊に発見され、命を奪われる可能性すらあった。
 もちろん、大部隊を投入すれば押し返す事もたやすいだろう。だがその場合、今度は敵側が最後の抵抗とばかりに森に火をつける可能性もあれば、無理のある進軍の隙をつくように別方面から襲われ、せっかく奪い取った数々の基地を奪い返される危険もある。

 行動に移したくても、あらゆる場面がそれを許さない。助けを出したくても、敵の動きを考えれば見捨てるしかない。まさに、歯がゆさしか残らない最悪の局面だ。
 だからだろう。アドニスが告げたとても作戦とは呼べない代物を採用し、彼女たちに任せてしまったのも無理からぬ事だった。

 それは、生身による探索。起動兵器を一切用いなければ敵に気取られる確率は急激に下がる半面、一歩間違えれば救援部隊の全滅もありうる、普通に考えれば成功率の低い作戦だ。
 なぜならば、飲食や肉体的な疲労という問題だけでなく、より隠密性を高めるために通信機具ですら利用が不可能となるからだ。そんな手段をとれば森に入ったが最後、自分が今いる座標すら判断できずに息絶える事だろう。
 そう、普通に考えれば、だ。


(――姉さん、そのまま直進すると川にブチ当たっちゃうよー)
(――こちらの準備は万全であります)
(――野生動物は見つけたけど、うーん。人の匂いはないかな)
(――エリニスちゃんもガフ大佐に合流して、エリスちゃんと一緒に連絡係りやっといてくれるー)

 一切の時差なく、距離を問わず行うことが出来るハイヌウェレの脳波会話。人の領域からかけ離れた身体能力。そして長期間食事が不要という体質は、この任務に最も適した人材だった。
 脳波の同調により常に潜入者たちの位置を補足し、それに合わした的確な指示によって正確な行動を可能とする。彼女たちの手にかかれば、座標ずれなどほとんど発生しないのだ。

 まさしく潜入の申し子。故に今、彼女はこの森にいる。失われた信頼を取り戻すために。自分たちを忌み嫌う人間たちに、"意思"を示すために。
 ハイヌウェレに対する印象操作と仲間の救出。それが今彼女に課せられている任務だ。

 しかし、それにしてもたった四人できたのは間違いだったのかもしれない。ほんの僅かな後悔がかすかに脳裏をよぎるが、しかしすぎた事は言い始めても仕方の無いこと。当初の予定では自分一人が向かうはずだったのだ、それと比べればいくらかはましだとティカは自分へ言い聞かせる。
 これが無謀な行為だと判ってはいた。愛する姉妹たちに迷惑をかけてしまうことも、理解はしていた。

 だがこれは、すべてを覚悟した上で引き受けた任務。それだからこそ、ティカは決して振り向かずにひたすら走る、走る、走る。
 彼女は決して止まらない。ひたむきに進み続ける。まるで一度でも立ち止まれば、もう二度と走り出せないという脅迫概念にでも囚われているかのように。

 だから、目の前に広がる川を態々迂回などしない。水面から突き出ている岩を足場に軽々と跳躍し、対岸へ水鳥のように降り立つ。
 もちろん、着地の際に勢いを殺すことなく踏み込むことも忘れない。慣性に逆らわない流れるような移動は、物音一つ立てる事がない滑らかな挙動。体勢を狂わせず、逆に速度を増したその肢体は木々の合間を縫うように突き進む。とても三日三晩走り続けているとは思えない、恐ろしい体力と運動神経だ。人と呼ぶよりかは、ほとんど獣に近い。

 今この森には、そんな獣が四匹潜り込んでいる。"長女"ティカ、"六女"ウェスタ、"七女"テティス、そして――"五女"デメテア。
 姉妹中最も人間嫌いなデメテアの参加はティカにとっては予想外のものだった。自分に対する点数稼ぎのようなものかとも思ったが、デメテアからしてみれば、姉に対する不当な評価を下す人間たちの鼻を明かしてやろうと行動に移しただけである。


お前たちが遅いから味方が死んだ。そう誤解されたからには、もう一度同じ任務に就き、そして成功させればいい。それでも人間たちが見下してくるのなら、何度でも何度でも助け出してやればいい。認められる、その時まで。
 それは、どんな評価や待遇でも甘んじて受け入れるティカには、頭によぎる事もなかった考え。
 それは、ごくごく単純で浅はかで、幼稚とも呼べるかもしれない。しかしデメテアはその思いを胸に、ティカたちと同じように森を駆けずり回っている。

 今までのデメテアには考えられなかった思想。ならば、これを機にデメテアには成長してもらいたい。そう思ったからこそ、ティカはデメテアを任務に同伴させることにした。同じく連れてきたウェスタは、もしもの時にデメテアを押えるために、テティスは医学的知識が長けているために、それぞれつれてくる事に決めた。
 二十日も彷徨っている人間は、おそらく体力的に酷く疲弊している。当然癒し手は必須だ。今は四人ばらばらに行動しているが、発見した際には即時テティスを向かわせる予定だ。

 もう三日も探し続けているのだ、そろそろ手がかりの一つや二つは出てきておかしくはない。
 そう、おかしくないはずだ。

(ティカ姉、敵の駐屯部隊に動きが。トレースローダーが大量に森に向かった。おそらく遭難しているこちらの部隊がばれた模様。敵の通信を傍受するから、それを頼りに範囲を狭めて)
(……そう、ばれちゃったのね。まあ、かえって詳しい座標が判明するようなものだから、そこまで問題じゃあないかな? もし先に見つけられちゃったようなら、そっちも動き出してね)
(――了解)

 難航した状況に投じられた一石の小石。敵の動きは気になるが、かえって好都合だったかもしれない。これ以上時間をかけるわけにはいかないのだから。
 アトロスの"眼"で地図と実際の地形を見比べ、レタの"聴く"敵の通話で方角を捕捉。あとは、速さとの勝負だ。

 幸いにも木々の密度が高いため、並の起動兵器では進入すらできない。そのため、敵の持ち出した乗用機は人の二倍強ほどの大きさしかない作業用の兵器だった。
 トレースローダー、別名第二種特殊作業用搭乗外骨格。人で言うところの腹にあたる部分に乗り込み、手足の動きを電磁モーターによって模写し何十倍もの怪力を発揮する、起動兵器や建設作業などに用いられる特殊兵器……というよりは、作業用ユニットだ。

 トレースローダーの足の速さはそこまでないが、それでも並の人間よりも素早く、しかも長時間動き続ける事ができる。だがその鈍重な起動音ははるかに遠くを走るティカの耳にも十分聞こえるほどで、まるで手に取るように動きが明らかだ。正直電信の傍受など必要はないほどに。
 くすりと鼻で笑いながらみるみるうちに距離を詰め、その機影を視野に捉えつつ並走。数は僅か十機、だが小型の起動兵器は生身の人間とはとても比べ物にならない怪力を誇る。仕掛けるのは敵のもつ情報を詳しく知るまでか、あるいは味方が見つかった瞬間か。


躊躇うのは一瞬、駆け出すのも一瞬。疲弊した仲間をかばいながら戦うのは危険と判断し、先に奇襲を仕掛け無力化させる道を選んだ結果だ。
 生身の女が一人で渡り合う、それは無謀な決断。しかし化け物の矜持としては、例え人数や兵力に差があろうとも人間に負けるわけにはいかないのだ。

 大地から飛び上がり、木の腹を蹴り飛ばし、更なる跳躍。突如真上にかかった影を不審に思ってか敵の一人が空を見上げるも時はすでに遅い。刹那の時間は人の生き死になど待ってはくれない。
 獲物に襲い掛かる鷹のように鋭く、そしてすばやい一撃。知識として学んだだけの格闘技術では稚拙な技しか繰り出せないが、しかし速度は人外の領域、誰にも止められはしない。首筋につきこまれた抜き手は易々と肉に刺さり、指を開きながら埋没させることで傷口を広げ、そして手首を捻りながら引き抜く。
 完全な致命傷、それも頚動脈を中心に刻まれた渦状の風穴だ、悲鳴すらあげることもできずに男はひくひくと痙攣しながら絶命する。

 返り血がティカの体に奔るが、気にしてなどいられない。敵はまだ九機、いや九人もいるのだ、突然の惨劇に驚愕している合間に倒せるだけ倒しておかなければならない。
 戦いの心理は数に依存される。如何に強力な武器を持とうとも、敵をすべて倒しつくさなければ数の少ない方が負ける。
 戦争とは個人で行うものではない。戦術や士気に依存される、存在の潰しあいだ。自分ひとりで戦っているつもりの戦士など死んでしまえと、ガフは常に教え続けていた。ならばそうしよう、そうしよう、そうしよう。潰しあう為に戦い抜こう。

 ティカはあえて間近の兵士を無視し、その後ろにいるまだ若い兵に詰め寄る。強敵を叩く事よりも数を減らす事に専念し、飛び上がりながら今度はその必殺の抜き手を肋骨へ差し込む。
 ぺきり、肋骨の砕ける音が響く。殴る事に不慣れな彼女は残念ながら骨の隙間を狙う事に失敗したが、その威力は骨を砕いて余りある一撃だ。諦めてそのまま突きこみ、まだ原型をとどめている肋骨に指をかけ、全体重を預けながら微笑んだ。苦悶に顔を歪ませる兵士に、にこりと、無邪気に。

 そして残酷な処刑を下す。宙ぶらりんな体を懸垂でもするかのように腕で引き上げ男と密着し、足をトレースロダーの股関節に当てる。ちらり、首筋を舐めあげると同時に一気に四肢に力を込め、男の肋骨をもぎ取るように引き抜いた。
 鮮血が世界を赤く染め上げ、内臓が冷ややかな外気に震える。どくんどくんと脈動する内臓に吐き気を催したか、数人が口元を押えてえづきはじめた。
 ティカは無意味な解体ショーを始めたわけではない。こうやって敵を体調不良に陥らせる事こそが、敵との戦力差を埋める方法だと判断したから行っただけのことだ。

 だが考えるのと実行するのとでは天と地ほどの開きがある。躊躇いも呵責もなく、まるで簡単な作業でもこなすように容易くやってのけた事こそが、彼女が本当の化け物である証明だろう。
 瀕死の兵に背を向け、眼前の敵へ踏み込む。威圧行為はもう十分だと判断し、今度は自分に向かってくる兵へ攻撃を開始する。
 初手で半数の敵を殺すか、あるいは行動を阻害さえさせてしまえば自分の勝ちは揺るがない。絶対の自信をもって、ティカは敵に相対する。

 憤怒の一撃が顔面を砕かんと迫り来る、だが銃弾すら視認するその視力には余りにも遅い。身を屈ませてひらりとかわしながら身を捻り、同時に掌底を肘部分に叩きつける。トレースローダーに匹敵するその一撃は易々と腕部を跳ね上げ体勢を崩させる。
 あわてて踏みとどまろうとしてももう遅い。旋回する右足は確実に息の根を止める一撃。


ぶぎゃっ。みずみずしい潰れた音色。紅い飛沫が大輪の花束のように散る。
 ぶぱっ。その場から離れるために蹴り飛ばした腹がたてた中身の潰れる音色。
 謝肉祭は終わらない。

 鋼の拳を振り上げ迫り来る二機は、目の前の化け物を打ち砕かんとがむしゃらに詰め寄る。だが、だが正面ばかり気にしていた彼らは、果たして自分たちにとどめを刺したのが何者なのか判別できただろうか。
 横の茂みから投擲された小石が、目にもとまらぬ速度で襲い掛かる。正確にして無情な攻撃は、人一人葬り去るには十分な威力をもつ。

 まさに必殺。加害者の顔を知ることなく、彼らはその一生を終える。
 いや、顔を知る必要はなかった。何の変哲もない小石を殺傷の武器に転じたその主は、今目の前にいるティカと同じ顔を持つ少女なのだから。
 それは最もティカの近くをうろついていた少女、ウェスタ。姉の見た視覚情報を頼りにタイミングを見計らっての参戦だ。

 じゃらり、もう一掴み石を拾い上げ、渾身の力を込めて投擲。大きく弧を描いて繰り出されたその攻撃はあまりにも大げさで、敵に身構える隙を与えてしまう。だが、それは罠でしかない。
 今度は素早くティカが距離を詰め、掬い上げるように顎をつま先で蹴り飛ばす。投げつけられた石を防ぐために構えた機械の腕が災いして、視野を狭めたのが敗因だ。予想外な角度から襲い掛かる一撃は、やはり紅と白の花弁を宙に舞わせる。

 人の命は脆い。殺す意志を持つ者の前では、瞬く間に屠られてしまう。例え軍人であろうとも、より殺す意志の強いもののほうが相手を圧倒してしまう。
 すでに半数が死に体だ、この時点で勝敗は決していた。

 果たして敵はどう動くだろうか。降参か、逃げ出すか、それとも最後の抵抗か。
 一歩……二歩……。相手の動揺を誘うためにわざとゆっくり二人は詰め寄り、両者それぞれ異なった微笑みを向ける。
 天使のような微笑みを。
 悪魔のような微笑みを。

 それを見てなお最後の抵抗ができたのは、たったの二人。残りの三人はただ、打ち震えて崩れるのみだ。
 ティカとウェスタに振り下ろされる我武者羅な拳。難なく後退して避けるウェスタに対し、ティカはあえて踏み込んで掌で受け止める。

「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛!」
「姉さんッ!?」

 渾身の力。決して鍛え抜かれたとは呼べない細腕で、脚で、全身で受け止める。単純な腕力は筋肉の断面積に依存されるが、人成らざる存在にはその法則は当てはまらない。耐える、耐える、耐え抜くどころか押し返さんとなお力を込める。
 じりじり、じりじり。拮抗し続ける二者は完全な無防備。隙だらけのティカを横合いから襲おうとする敵を牽制するので手一杯だ、ウェスタにはもう、二人の戦いに援護をまわすことは出来ない。


機械を駆る人間と、生身で争う獣の――根競べ。
 さしもの化け物も不利なのか、ざりざりと踵が地をすべり、少しずつ少しずつ押しやられていく。だが、ティカの瞳からは闘志は消え去らない。その命、朽ち果てるまでは!

 う、お、おッ……。

 驚愕の声。喉の奥から搾り出された声。鈍い音と共に拳は砕け、穢れ一つない五指が這うように装甲を抉り取る。僅かな緋色の殲滅も付着しているが、勝者は眼に見えて明らかだ。
 ぺろり、勝者が指を舌で舐める。敗者はただ、失意のままに膝を屈するのみだ。
 鋼を制した少女は不敵に、笑った。





 捕縛部隊が敵に迎撃され全滅した。その知らせは通信回線を常に開き続けていた彼らの元にも届いていた。だがまさか、まさか生身の人間二人程度に負けるなど、考えられないことだった。
 トレースローダーの戦闘力は決して高いとは呼べない。だが、人の何十倍もの力をもち、銃弾すら弾くその装甲を破れるものなどいないはずだった。
 はず、だったのだ。

 逃亡兵など十機で十分と判断したのが間違いだったのかもしれない。いや、あるいはあの救難信号自体が虚偽の電信で、二重三重の罠を張った上でこちらの戦力を落とすつもりなのかもしれない。
 次なる山狩り隊を出すべきか、あるいは地形的に不利だが起動兵器を向けるべきか。そう思い悩む指揮官だが、次なる連絡にそんな考えは吹き飛んでしまう。

 敵影、発見。
 それは僅か十五機足らずの小部隊。だが決して、侮る事も無視することも出来ない小部隊だ。並みの武器では小破すらできない鉄壁の装甲をもつ、灰紅の堅機『吾亦紅』の姿と認識したからには。
 砂煙をあげ、猛進撃してくる堅牢なる部隊。果たしてそれは無謀な突貫か、それとも威力偵察か。

 守るべきか、攻め出るべきか、そして『森』にも手を回すべきか。
 焦りは思考を鈍らせる。その判断力の低下が、すべての敗因だ。


「指揮官殿に報告、西部の森林にて敵の駆動音を認識、その数――に、二百です!」
「なんだと!? 二百、にひゃっくだと! お前ら、そんなものに気づかなかったのか!」
「わ、判りません。敵がどのような奇術を使ったのかは不明ですが、しかし……しかし!」
「ぐ、ぬ、ぬ……ッ!」

 局面は最悪。やはり救難信号は罠だった。そう判断するや否や、指揮官は速やかな撤退宣言を告げた。
 こうして、矛を打ち合わせることなく彼らはその地を後にする。

 それこそが狙いとも知らずに。





「ところで、本当に大丈夫なんですか、ティカ准尉」

「うん、ちょっと手の皮がめくれた位だから、問題ないかな。心配しなくても、テティスに治療してもらったから問題ないよ」

「助けた皆さんもちょっと衰弱してた位で、怪我らしい怪我がなかったから安心です。ティカ姉さんも、むきになって正面から戦わなかったら良かったのに、もう!」

 ぷんすか。そんな擬音が似合うくらい、頬を膨らませて睨むテティスをさらりと流してティカは凱旋する。
 被害のない完全な快勝。それは、探す合間に森の各地に仕掛けた音響装置と、アドニスの電子戦技術を組み合わせた賜物だ。

 合図と同時に起動兵器の震動音を発生させ、同時に敵の探知機器へハッキングを仕掛けその数を誤認させる。当然、森の中には一機たりとも起動兵器は潜入していなかった。
 だが、そうと認識させないために先の十五機が生きた。迫り来るそれらを目撃した彼らは、居もしない影を恐れて逃げ帰る。
 見えない敵ほど恐ろしいものはない。かつてガフがそう教えた言葉そのままの結果だった。

 かくして彼女たちは、たった二十四人しかいないハイヌウェレ隊の、その総員を使うことなく勝利を導いた。
 流石にこの結果には、反感ばかり向けていた兵士たちも唖然としてしまった。むしろ救出された九人の兵たちが告げる、彼女たちの勇敢さや手厚い看護の描写を風聞することで、疑念ばかりだった視線にも次第に棘が抜け落ちているようだ。


「なんてゆーか、都合がよすぎる奴らですっごく腹がたちますわ、お姉さま」

 とは、デメテアの談だが、それも致し方ないのかもしれない。
 感情で生きる人間は、理屈や理想だけで生きるのではないのだから。
 飼われている彼女たちとは、違うのだから。

「ま、そう言わネーでくれよな、お譲ちゃん。ま、怒る気持ちは判るケドよ、俺に八つ当たりはヨォ、簡便な簡便」
「うるさい! 元はといえばあんたたちがちゃんと教育してないから悪いんじゃないの!」
「お、おいおい……」
「ハハハ、形無しですねブニュエルさん」

 けらけらと、トルバトールが二人の掛け合いをからかう。部下たちが不信感を抱いていた時、彼らだけは決して態度を変えようとはしなかった。それが同情だけではなく信頼や好意の念だと知ったのか、比較的デメテアは彼らに対してそれなりに打ち解けていた。
 人と、触れ合う。理解し合い、お互いを認め合う事を知ったのは、つい最近のことだ。

 人も悪くはないものだ。優しい人間は好きで、嫌ってくる人間は嫌い。すべての人間を拒絶していたティカにすれば、目新しい新鮮な体験。
 宰相ユリウスのために戦う。そう誓ったはずの自分だが、人のため仲間のために戦うのも悪くはないのかもしれない。
 少しだけ、そう思った。

「……ところでお嬢さん、先ほどから水しか摂っていないようですが、ひょっとして酷い偏食家だったりするのですか?」
「あー……それは、ねぇ……」

 一品とて手をつけられていない食事が気になるのか、再び口を開くトルバトール。頬をかきながら作り笑いを浮かべるティカは、末席に佇むアドニスをちらりと横目。
 その視線に気づかないのかはたまた無視しているのか、アドニスはゆっくりと咀嚼して嚥下する。そしてぺろり、唇を舐める。


「……彼女たちは、うん、まぁそうだねぇ。食事制限がある、とでも言えばいいのかな。僕の調整したもの以外は口にしちゃいけない決まりなのさ。各種栄養素を計算した上で配合する、まさしく彼女たち専用食ってやつだねぇ」
「それって、旨いのか?」

 ガルーシアの何気ない一言がツボにでも入ったのか、アドニスはクククと笑いながら席を立ち、後ろに追いやっていた箱をこじ開けて中身を出す。乳白色の中身が透けて見えるケースと、細長い謎の固形物。興味があるのか四隊長はそれぞれ手に取り、それを口に入れてみる。
 その反応は見物だ。ぺろりと舐め取るや否や顔を歪ませ名状しがたい表情を浮かべるもの、パキン、シャキという硬質な音を立てながら噛み砕くも、一噛みごとに眉根が寄っていくもの。それは人が表現する中でも『不味い』の一言で言い表される類のもの。
 それぞれが珍妙な顔を浮かべながら、無言のうちに酒をあおる。それでも味が残っているのか、まだ表情は苦しい。

「で、お味のほどはどうだい?」
「その、なんだ……」
「……大変独創的? とでも呼ぶべき……うん、まあ変わったお味でして」
「――不味いだろうね、それ」

 してやったり、そんな顔を浮かべながらケケケと哂う。意地の悪い女だ、そう思いながらも四人は視線を泳がせる。
 アドニスには誰一人として頭が上がらなかった。ほとんど苦手意識ともいえる感情をもっていたが、それが彼女のやり口だと気づけたものはいただろうか。

「ま、そうさね。今回はまあ、彼女たちの健勝を祝う席だ、お預けというのも酷な話しかもねぇ。いいよ、好きなものを好きなように食べるといい」

 それからは、大騒ぎだった。
 拙い味情報しか持たない彼女たちは、一品口を含むたびにそれがどういう味なのかを尋ね、まるで子供のように食べ散らかし、噛み付き、四人を困らせる。その姿を肴にアドニスは果実酒をのみ、それに興味をしめしたメラニが奪い取り飲み干す。
 味を知らないハイヌウェレに、酒を知らないハイヌウェレに、その場はまさしく――楽園の宴に、他ならない。

 四人はほとんど保護者だった。酔うもの、食べるものに引っ張りまわされ疲れ果ててしまう。そんな彼らと妹を尻目に、ティカは一人ベランダへ出る。
 夜風を浴び、喧騒を聞き、そっと手にした杯を傾ける。
 月はなくとも星空は万の輝きを見せる。それを見上げながら、一人くくっと笑む。

「……なん、だ……酔ったのか……ふぅ」

 逃げ出してきたのか、息も絶え絶えなガルーシアが横に並ぶ。膝を屈しい呼吸を整えようとしている彼の背中をなでながら、ちらり喧騒を横目でみる。
 あの中に放り込むのは忍びない。それに、星空の下で語らうのも満更ではないから、ティカは中からは見えない死角へと彼を誘う。
 そこは丁度カーテンの裏。捲らなければ決してばれやしない場所。


「大丈夫ですか? 人の心配とかしてる場合じゃないですよ。はい、これ」
「ン……ああ、ありがとよ」

 手にした酒をガルーシアに手渡し、もう二度三度と背をさする。大分息も整ったのか、深いため息を一度つくと、渡された酒を一口飲む。
 甘い味。彼の趣味としてはもっと辛口のものが欲しかったが、不思議と旨く感じた。

「ごめんなさい、うちの子たちちょっとはしゃぎすぎてるみたいですね」
「あ、ああ。まあ、仕方ねえだろ、あんな不味い飯ばかり食べさせられてたんじゃ」
「そうですか? 私は別段、そうは感じませんでしたが。まあ、他の食べ物の味をしったからには、それも当てになりませんけどね」

 違いない、そう同意の声をあげようとしたガルーシアだが、視界に入ってきた潤んだ瞳に思わず息を詰まらせた。
 酒気を帯びた濡れる瞳、紅潮した頬、つややかな唇、そしてふわりとした笑顔。女の色気を放つその姿に、背に当てられた柔らかな腕に、発育した体が手に取るように判るその服に、思わず唾を飲み込む。
 そんな男の情欲もわからないのか、女が笑う。不思議そうに、可笑しそうに。

「やだ、酔ってるのはガルーシアさんのほうじゃないですか。だめですよ、隊長さんなんだから潰れないでくださいね、えい」
「おい、ちょっと……」

 ぱしんと、軽く背を叩くと同時に杯を奪い取り一気に飲み干す。ふぅ、と一息ついて、見上げるようにもう一笑。
 その笑顔に惹かれたのも、仕方のないことだった。

 おそらく、彼が始めて彼女に恋したのは、この時。
 彼は彼女を愛してしまった。

 決して結ばれる望みのない――




 ――ケダモノを。



 ――続く。